アダルトチルドレン

アダルトチルドレンの意味を最近なんとなくわかってきた。

 

私多分アダルトチルドレンなのかも。

 

このブログを始めてから自分の中の本当の気持ちを吐露するようになって、気付いた。

家庭を持った今でも自分の母親に執着している。そして、うまくいかなかったときや、自分の子供と接しているときに何かにつけてすぐ母のことを思い出してしまう。

「子供のころ、母にこうしてほしかったな…」とか。

 

自分の子供に、今の私のような思いは絶対にさせたくない…のだけど果たして自分がちゃんと子供と向き合えているのか全く自信がない。

 

子供のことは愛している。何にも変え難い存在だ。

だけど時々無性に突き放したくなる。

突き放すというか、離れたくなる。

 

わからない。そして母のことを思い出す。

 

私が求めていたものは、

「共感」と「肯定」だったんだと思う。

 

昔も今もそうだけど、母は私の話は必ず一回は否定してくる。うまく例えられないけど、否定の相槌というか。

私の話に返す言葉が、「でも」から始まる事ばかり。そして「そうだね。」と共感してもらえる事はまずない。

そんな反応だから私も、話さなければいいのに、なぜか母親に話しかけたくなってしまう。辛い思いをするのは自分なのに。

いっそ本当に縁が切れた方が楽なのかもしれない。

 

私は自分の子供には精一杯共感したいし肯定したい。もちろん間違った事は否定するけど、

話しを聞いたらまずは一回「そうなんだね,気持ちはわかる。」と受け止めたい。

 

だけど…今は時々無性に一人で家を出て当てもなく車で彷徨いたくなる。

 

頑張りたいのに頑張れない

母の言葉

久しぶりに過去の仕事のことを振り返って記事を書こうかなと記憶を辿っていたら

どうしても忘れられない母の言葉が出てきた。

 

言葉というか、態度というか…

 

最初の職場を辞めた時、専門学校の担任から電話が親にもかかってきたそうで、その時母が「学校に迷惑かけて申し訳ない」的なことを言ったらしい。

後日学校に面談に行った時に教務から聞いた。

その話を母にしたら、母が本当に得意げな顔で鼻を膨らませ、目を輝かせながらこう言った。

「そう!先生にもね言われたの。お母さん素晴らしいですねって。娘が辞めた職場の事を一切悪く言わずむしろ学校に謝ってくださるなんて…ってね!」

本当に嬉しそうだった。その時イキイキとした母の顔が忘れられない。

当時の私の反応は「ああ、そう…」くらいだったと思うが、内心「何をそんなに喜んでいるんだ。確かに、娘が退職した勤め先の事を悪く言わないのは立派だけど私が体調を崩して苦しんで辞めた事は事実なのに。そんなに世間体が大事なのか。いや確かに大事かもしれないが、その話を私の前で嬉しそうに話すな。本当にこの人は私の気持ちを考えられないんだな」

と腹が立った。母は昔からそんなところがある。誰かに素晴らしいですね、と褒められると私に報告?してくるのだ。

今私が大人になってからわかるが、母もまた誰かに認めて欲しくて、父も単身赴任で長く家にいなかったしあまり話を聞くタイプでもないから、親である自分の承認欲求を子供にぶつけていたのかもしれない。

でも今だからわかる。絶対に子供に自分の承認欲求をぶつけたらだめだ。

子供に気を遣わせたり欲求のケアをさせるべきではない。

何より下手したら一生忘れない不快な出来事になると思う。私がそうなったように。

今でも私は母の嫌だった言葉をよく思い出す。

親が思うより、子供は覚えてるものだ。

そしてずっと母に囚われている気がする。

とっくに結婚して子供もいるが

早く本当の意味で自立したい。本当なら頼りたくないし過去の嫌な言葉など思い出さないくらい強くなりたい。

 

仕事の事を書こうとしたが、結局母のことになってしまった。

 

 

おせちの温度

 

前記事で手打ち蕎麦のことをボロクソに書いたが今度はおせちの愚痴です。

よくもこんなに恨み節が飛び出るな。

我ながらひねくれていて引く。だけどここはそういう場所にすると決めた。

そして私は性格が悪い。

卑屈で陰湿で弱くて自己顕示欲が強い。

 

おせちって嫌いだ。

全部冷たいから。冷たいしなんか全部塩辛いか甘すぎるかだしほぼ練り物だし。

料理って食べる時の温度でめちゃくちゃ味が変わると思ってる。

おせちが冷たい理由も、保存食だから〜とか元旦くらいは料理をしないように〜とか理由も全部わかってる。

 

それを踏まえてもまずい。冷たい。飽きる。

 

 

特に義実家で出されるオール出来合いのおせちはしんどい。全部味が濃い…

そして毎回お刺身を出してくれるけど

何故かこのお刺身もめちゃくちゃ冷たくて、むしろ凍ってて噛んだらシャリっていう。

 

あ〜〜〜〜

もてなしてもらっておいて文句しか出ない最低な嫁ですね。

でもね、別に行きたくて行ってるわけじゃないし。準備片付け配膳はちゃんとやってるし。

 

寒い部屋で冷たい料理を食べて酒も飲まずに片付けをした後は呑んだくれた夫を乗せて運転をして帰るんですよ。私は。

 

夫は言うんですよ。

「たまにしか親と呑む機会がないから一緒に呑んであげたい。」

私の実家でも呑んだくれてますよね?

別に私は親と一緒に飲みたいわけじゃないけどそれじゃあ私って結局双方の実家で家政婦やるために帰省してるって事でOK?

 

どうせ自宅に帰ってもすぐ酔い潰れて寝るんだから皿くらい運べば?

 

なーーーーーんにも考えずに自宅の温かい部屋ででピザ食べたい。

 

悪しき習慣、蕎麦打ち

あけましておめでとうございます

どうせ誰も見てないから新年初回から不快な記事を書こうと思う。

 

まず去年はどんな一年だったか

引っ越し、慣れない土地での仕事、約1ヶ月で退職、再度就職、1週間で退職、精神を病み病院に通うが周囲の理解をあまり得られず自己判断で通院をやめる。その後8月に再度就職し、やっと自分に合う職場を見つけて今のところ続いている。

カスみたいな一年だったが私にとっては激動だった。いずれ一つ一つ記録記事を書こう。

 

今年はどうか心穏やかに過ごせますように。

社会不適合だと思われても、わがままだと言われても自分の心を守ることを第一にしたい。

 

年末年始。毎年毎年思う事があるので書きたい。

私の実家は毎年年末に蕎麦打ちを行う。

元は母方の実家がしていたが祖父が亡くなってからは道具等も受け継ぐ形でやっている。

はっきり言って蕎麦打ち、大迷惑だ。

 

まず蕎麦打ちをすると、その作業部屋は蕎麦粉まみれで蕎麦未食の幼児は隔離しなくてはいけない。寒い季節だが換気のために窓も開ける。そして蕎麦を茹でるのはとても難しい。作るそばの量が多すぎるので大量のお湯を何度も沸かして鍋もいくつも用意している。

蕎麦を茹でた鍋も、ザルもボウルも、湯切りしたシンクもドロドロで非常に洗うのが大変。

蕎麦粉を大量に纏った水が流れる排水溝は詰まり水が逆流してくる。

蕎麦を打つのは父と私の夫。茹でるのは母と私。

毎年毎年、母はイライラしている。片付けが大変だし我の強い父と茹で方やら蕎麦粉とつなぎの割合とやらで揉めるし、苦労して茹でた結果上手くいかない事も多々あるからだ。

とくに去年末は酷かった。用意していた蕎麦粉の分全て失敗して母がわざわざ追加でまた蕎麦粉を買ってきてまた一からやり直しになった。

失敗した蕎麦は捨てるのももったいないので揚げて蕎麦煎餅?にしていた。

 

何か言いたいかというと、とにかく蕎麦打ちはコスパが悪すぎる。

苦労の割に美味しい蕎麦が出来上がる可能性は限りなく低いし、超大変な蕎麦粉から生地を作る工程を経て、最終の茹でる工程が終わらないと失敗か成功かもわからない。

個人的には蕎麦は細くてツルッと入っていくものが好きだけど、所詮実家の素人手打ち蕎麦は太くて麺の太さは不揃いでぶつぶつ切れていて短いしなんか麺の風味もくどいしつゆに入れると何故かベチョっとするのがほんとに嫌いだ。

 

私の旦那は田舎蕎麦だとありがたかってるみたいだけど、私は幼少期からずっと年末は手打ちそばを食わされしかも大量に作るもんだから1月いっぱい昼飯に蕎麦が出てきてもうほんとにうんざりだった。

その体験から素人の不味い蕎麦は迷惑でしかないと揺るぎなく思っている。

やりたいなら自分達だけで消費できる量だけで作って欲しいし冷凍すれば良いとか言って私達に大量に押し付けてくるな。

しかも一度全部茹でている麺だからか冷凍した後の蕎麦は一段とまずい。

 

絶対、そんなにいらないと断っても押し付けてくるしうちの母はいじけるから超めんどくさい。言えるもんなら言いたい。

「せめて一食分だけで良い。冷蔵庫の肥やしになるだけだから」と。

 

とにかく蕎麦はプロの作ったものが一番美味しいし無性にどん兵衛が食べたくなる。

 

年末にイライラしながら不味い蕎麦を作る両親を見ていると本当に伝統ってなんなんだろうと思うし、絶対に引き継ぐつもりはない。

夫が自宅ですると言い出した日には外でやらせる。

 

蕎麦打ち、定年後のオヤジがハマるイメージだが、なんでよりにもよって高難易度のものを選ぶのか。

家族に迷惑かけるぐらいなら、日々の自炊にハマって妻が仕事の日の自分の昼食ぐらい家にあるもので1人で作って片付けまでして、たまに家族のご飯を作ってあげる方がめちゃくちゃ感謝されるのに。退職後趣味を作らなきゃとか言ってる男性に言いたい。

ご家庭の冷蔵庫の中を全て把握していますか?一度でもじっくり見たことはありますか?

冷蔵庫の中の食材だけで、献立を考える事が何よりボケ防止になるよ。

 

母は朝早くから仕事なのに、休みの父の昼食を作って温めるだけで食べられるように準備して出勤する。

昼に父は電子レンジの使い方がよくわからず「ぬるい」と文句を言い、母が作った味噌汁をよそった後に鍋を冷蔵庫にしまわず出しっぱなしにして夜帰宅した母がそれを見てキレ光景を見ると、蕎麦打ちより何より身につけることあるだろと強く思う。

 

 

あぁ、冷凍庫を圧迫している大量の蕎麦と

失敗蕎麦を揚げたギトギトの蕎麦煎餅?というかベビースターラーメンの様なもの、

絶対に少しずつ捨ててやる。

 

 

クリスマスの思い出

クリスマスの思い出

サンタさんにクッキーと温めた牛乳をマグカップに入れて準備してた。

朝起きたらクッキーは減ってなかった

マグカップをひっくり返したら牛乳がジャーっと溢れて私は親が起きる前に床の牛乳を拭いて掃除した。

流しに捨ててくれても良かったから マグカップは空にして欲しかった。

 

プレゼントは置いてあった。

 

サンタの正体は自らカミングアウトされた。

小学校3年くらいまで信じてた気がする。

純粋すぎる馬鹿な子だな

全てを親のせいにするつもりは全くない。

両親には感謝している。不自由なく育ててくれた。特に教育の面では。

現実的な話だが将来私に借金を背負わさないと奨学金を一つも借りずに専門学校卒業までさせてくれたのは非常に助かった。

社会人になってから親の凄さとありがたみが改めてわかった。

子供の時から色々な場所に連れて行ってくれた。特にキャンプが趣味で小さな頃からたくさん体験した記憶がある。

尊敬している両親。

 

それなのに何故かずっと親に対して何かを

「求めて」いる。虚しさを感じる。

甘えだと思う。だけど30歳を超えた今、何となく何を求めていたのかわかった気がする。

私は親に「認めてほしかった。」

 

親も特別頭が良くない私に多くは求めてこなかったと思う。だけどずっと何か認められていない気がした。

 

幼少期、私はいつも髪が短かった。散髪は家で親がやってくれて写真の中の私はいつも毛量の多い昔風のおかっぱだ。太い身体の私は服によっては男の子のような風貌だった。

近所の同じ幼稚園の子は髪が長かった。

いつも可愛い髪ゴムをつけて三つ編みをしていてそれがとっても羨ましかった。

幼稚園のクラスで髪の長い女の子が先生に髪を可愛く結んでもらってるのが羨ましかった。

なぜ私は一度も髪を伸ばせなかったのか。

母に聞いたら「あんたは髪が短い方が似合うから」と言っていたが、後々母は子供の髪を結ぶのが苦手だったし働いていたからそんな暇もなかったと聞いた。

そして母の母、私から見て母方の祖母が髪を伸ばしている子供をだらしがないと言っていたらしい。綺麗に纏めるか切り揃えるかしないと気に食わなかったらしい。

大げさな、と思われるだろうがこれは呪いだった。子供の時から「あんたは髪が長いのは似合わない。」「ボーイッシュな方が似合う」と言われ続けていると自分の中の「髪を伸ばしたい。女の子らしい女の子になりたい」という気持ちが恥ずかしいモノのような気がしてくる。

 

私は小学校卒業まで髪を顎より下まで伸ばしたことがなかった。

自分はボーイッシュなキャラクターが似合う、と思い込み本当は女の子らしい女の子に憧れていたが乱暴に喋ったり、極端に短いショートカットにしたり、休み時間は男子と外で遊び、「男友達といる方が楽」なんて言ってた。

 

その結果、受け入れてくれる男友達もいたが影では「オトコオンナ」と言われカースト上位にいる女の子達に呼び出され「調子にのるな。」とか色々言われた。親には言わなかった。

とても嫌だった。だけど一度身についてしまったキャラはクソ狭い学校という世界では簡単には変えられない。

小学校6年の時には運動会で応援団長に立候補してみたりした。

その時にカースト上位女子から「声の大きな子が立候補してくれてよかった〜笑」と薄ら笑いを浮かべて言われたのが忘れられない。

両親はなんだか嬉しそうだった。

「ボーイッシュでやんちゃで子供らしいちょっと雑な私」を健全で子供らしい子供だと思っていたのだろう。

中学生になった。私はいじめられた。ハブられた。居ないものとして扱われた。

毎日めちゃくちゃ苦しかった。

小学校のときのお山の大将キャラは中学生になれば「変なやつ」となった。

当時は何故自分がいじめられてるのかわからなかった。今ならわかる。

浮いてたからだ。一般的に中学女子が興味を持つお洒落や恋愛の話題に何一つ乗れなかったから。異質だから。しかも元々無理したお山の大将キャラだからリーダーシップがあるわけでもなく中身がスカスカなのがバレたんだと思う。

きっかけなんてそんなもんだ。

中学1年の担任はいじめられている私に

「お前は感受性が強いから」と言った。

どういう意味だったのだろう。

私は日に日に学校に行くのが苦痛になり、教室に居ると声が出なくなって授業中に当てられても何も言葉が出せない時もあった。

よく覚えてないが耐えられないときは授業中に抜けて担任が職員室に居させてくれた記憶もある。

ある日母に相談した。母は1日だけ学校を休ませてくれた。平日に幼稚園児の弟と母と一緒にショッピングモールへ出かけオムライスを食べた。楽しい1日だった。

気分転換させたかったのかな。

翌日からは普通に学校に行った。当時よく母に言われたのは「ここで休んだら負け。くだらない奴のために人生棒にふるな。這ってでも学校に行った方が良い」だった。

絶対に不登校にさせたくなかったんだろう。

実際にしばらくしたらいじめのターゲットが変わり違う子が無視され始めた。今なら中学生なんてそんなもんだと思えるが、当時の私にとっては暗く長いトンネルをずっと歩き続けている様な毎日で、今思い返しても楽しい思い出が思い出せない。

まさに、這ってでも学校に行っていた。

でもそれで得られたものってなんだったんだろう。

中学のときの同級生は大人になった今誰とも繋がりはない。

母に私の話を聞いて欲しかった。

どんな風に無視されているのか、なぜか教室で声が出なくなることとか、小学校のとき仲が良かった子も誰も話してくれないとか、聞いて欲しかった。

1日一緒に出かけてくれるのも嬉しかったよ。

だけど、一緒に家にいて私の話を聞いて欲しかった。そして一言「辛かったんだね。」と言って欲しかった。

 

母ばかり出てくるが父は当時単身赴任で週末のみ会うような生活でした。

今思えば母も大変だったでしょうね。

30超えた大人が今更何を書いているんでしょうね…

フリーター

新卒で入った職場を超短期間で辞めた後

 

専門学校のルールで新卒で短期間で辞めたら学校に連絡しないといけないと決まっていた。

連絡するの嫌だなぁ…と思っていたら学校から連絡が来た。しかも退職前に。

超狭い業界なので私が退職届を出した時点で雇い主が学校関係者に話をしたのだろう。

 

そしてその電話でもう次の職場の斡旋?をされた。まだ一応辞めてないのに。

母にその話をすると良いじゃない!せっかくとった資格だからやりなさいよと勧められた。

 

私はこのとき、内心もう懲り懲りで違う仕事がしたかった。だけど高校卒業後、専門学校に通いその職種以外のバイトもせず仕事の世界を知らなかったから全く違う環境に飛び込む勇気も無かった。

10年経った今振り返っても、あの時どうするのがベストだったのかわからない。

 

結局1ヶ所目の職場を辞めて2週間後には次の職場に居た。また同じ職種で開業院。

だけど今回は正社員ではない。フルタイムフリーターだった。

そこの職場は正社員は雇わず全てのスタッフがパートとフリーターだった。

とても暇な職場でまぁ気ままに過ごさせてもらった。医師からも「リハビリのつもりで」と言われていたので、少しずつ知識をつけたり技術の練習をさせてもらった感じだった。

そんなリハビリ生活を1年ぐらい続けていたら医師に「若いからどこか違う職場で正社員としてまた働いたらどう?」と転職をすすめられた。本当にこの先生は神だった。

私自身も楽だけどこのままここにいても正直技術の向上は見込めないし何よりまだ何も学べてなかったので同期とどんどん差ができていることに焦っていた。

だけど転職かぁ〜…また嫌なところに当たったらどうしよう…

と悩んでいたらちょうど良いタイミングで、

同期のグループLINEに「人が辞めて困ってます。新しい職場探してる人いませんか?」と!

 

私はそのLINEに食いついて、同期に繋いでもらい無事に3ヶ所目の職場を確保した。

1年ぶりの正社員だ。

 

今日はここまで。

ブログを書いていて思ったけど、なんだかここまで私全ての選択を流されてしているな。

意思がない。無気力だったんだろうな。